昨年10月に父が他界してそろそろ半年になる。先に他界した母の世話は父が見てくれいて、弁護士試験の受験勉強と仕事の両方であたふたしていた私を煩わせないように、ギリギリまで一人で世話をしてくれた父には感謝しかない。そして今度は私の出番。父は一人で暮らしていたので、その父が入院してから1週間に一度は船橋に行く生活(下着の洗濯、家の掃除、医師の説明を聞く、入院や転院の付き添い、施設入所時の洋服の購入や持ち物へのお名前ラベルの貼り付けも)が始まり、病院で容体が急変して他界、合計7ヶ月の介護生活であった。個人事業主として仕事しながらの介護は正直辛かったし、そろそろ体力・気力共に限界を感じていた時の他界だったけど、成人してからはあまり話す機会がなかった父を知る貴重な機会だった。今もなお、他に選択肢があったのではないかと思うこともありその度に涙が出てしまうのだが、そういうことも含めて書いてみたい。
A. 最初の介護施設
私だけでなく、介護や介護施設というのがどういうもので、どのように分類されているのか、詳細はさっぱりわからないまま、自分の周りで介護が必要な人が出てきた時に初めてどうしたらいいんだろう、と考えるのが一般的ではないだろうか。父は突然入院することになる前日まで、自分のことは自分でやっていたので、父も私も介護および介護施設というものについて考える必要がなく、よって私の介護施設に関する知識はおよそゼロ、老人ホームとの違いもわからない状態であった。
しかしながら、父が腎不全、肺水腫で入院する期間が2ヶ月位になり退院も視野に入ってきた頃、歩けなくなってしまい、かつ腎臓のための特別な食事メニューも必要になった父を家に帰すことができず、退院したらどうすればいいのかを考える必要が出てきた。途方に暮れる私に看護婦さんが「病院にいるソーシャルワーカーさんに相談してみたら」と言ってくれたので、そこで初めてソーシャルワーカーという、ケアマネージャーとは違う職業の人を知ることになる(ケアマネージャーは、自宅で介護する際に市からリスト化された中から自分で選ぶものなので、ケアマネさんともご縁がなかった)。ソーシャルワーカーのUさんから、介護施設の分類について教えてもらい、リハビリが終わって歩けるようになったら家に帰りたいであろう父のことを考えて、介護老人保健施設(老健)という、公的機関で3ヶ月だけいられる施設を紹介してもらい、そこに父はお世話になることになった。施設については、コロナ対策で父との面会が2ヶ月できなかったり、入所後の5日間待機とか、コロナ罹患者が出た時に入所者全員が待機させられて、リハビリの時間を余りとってくれないと父が愚痴をこぼしていたのは事実だが、腎臓が悪い人が入れる施設が限られていた中で、受け入れてくれたことには感謝している。他の施設にいたら父の病状が悪化しなかったのか、もっとリハビリが上手く行ったのか、そこら辺は今では知る余地もない。
B. 2度目の入院の後の施設
施設に入って2ヶ月弱経った頃、治ったはずの腎不全、肺水腫の症状が復活してしまい、父は再び病院に戻ることになってしまった。最初の施設が3ヶ月期限だったので、入院するしないに関わらず次の施設を探す必要があった。老健の方が、次の介護施設を探してくれるというベネッセの方を紹介してくれていたので、その担当の人に施設の特徴や、違いを教えてもらい、彼は施設の見学にも付き合ってくれたので、本当に助かった。
当初は施設から施設への移動と考えていたので、サ高住と呼ばれる「サービスつき高齢者住宅=個室で、基本自分のことは自分でやるが見守りやリハビリに付き合ってもらえる」を考えていたのだが、病院に再入院した時の状態を見ていると、とても無理だと判断し、個室がついている介護付き老人ホーム型の施設探しに切り替えた。その時に考えさせられたのが、今まで母以外の他人と暮らしたことのない父が、周りの人とうまくやっていけるかということ。父は教科書会社の編集、のちに営業として退職まで勤務していたが、元々テニスと本と麻雀が大好きな人で、多分仕事相手の教師達、同僚、テニスクラブの仲間くらいしかネットワークはなかったと思う。又、今まで父が住んでいたマンション、戸建ての住宅及び趣味の仲間は、生活のレベルとか、職業などが似たような人たちだったが、こと老人ホームとなると、入居者に年齢以外での共通項を探そうとすると、基準はお金しかない。要はその施設にかかるお金を払える人たちが入所するので、彼らが現役時代にどのような生活をしてどれくらいの資産が残っているか、が共通項になる。介護レベルと施設のレベル(施設の作り、サービス、食事、職員の経験年数など)が上がれば当然料金は上がる。当初は父の年金にちょっとプラスして入れるくらいの施設にしようかと思ったのだが、施設見学に行って施設の仕組みやその入所者をみると、うーむ、これは無理(その理由はなんとも書き難いが)と判断。多分父の寿命はこれから3年くらいだろうと勝手に判断し、父の貯金で3年ならなんとかなる、料金高めの施設にしようと決めた。施設もいいところはなかなか空きがないのだが、家から10分くらいの損保ジャパンが経営するいい施設に空きが出たとベネッセの方が教えてくれたので、そこに決めた。が、契約寸前に病院で「施設を決めた」という話を父にしたところ、間も無く意識不明となり1週間後に急逝してしまったのである。もしかして、私の話を聞いて、本当に家に帰れないんだと絶望して病状が悪化したのかもと思ったが、これも今となってはわからない。
うちは父も母も日本尊厳死協会に入っていて延命治療は拒否だったので、そのことは入院する病院で最初に医者には伝えた。でも、尊厳を持って延命はさせないで入院し、死んでいくことがこんなに難しいとは、父のことで経験するまでわからなかった。それはなぜかというと、医者は基本的に患者を死なせないためにどうするかを考えるので、患者の嫌がることでもそれが延命につながるならやろうとするからである。3月に父が入院して1ヶ月経たないある日に医者から電話がかかってきて、父は危篤、父の命はもってあと1週間と言われたことがある。その時の父の状態といえば、あちこちにチューブと管が繋がれ、全くベッドから動けない状態であった。トイレに行くことすらもできない、ベッドに縛り付けられた、尊厳からは遠い状態であった。父はその時も可哀想なことに意識があって「このチューブが痛いから外して欲しい」と私にいうのだが、自分で医者には言わない。しょうがないので私が悪者になって「尊厳を持ったまま死ぬことが父の希望なので、どうせあと1週間の命なら、全てのチューブを外してもらえませんか、特に下半身にチューブがついているのが検査のためだけなら、治療にも当たらないのでやめてほしい」とお願いしてみた。医者はそれを理解してくれて、その通りにしてくれた。その後投与した薬が効いたこともあるのだが、父は楽になったからなのか危篤状態から逃れて、回復に向かっていったのである。言ってみて良かったと心から思った。
ただ、ことはそれだけで終わらない。前述の通り、施設で症状が再発してしまったので、父はまた元の病院に逆戻り。でも腎臓病は、最初に入った病院では根本治療ができないということで腎臓科のある病院に転院することになり、改めて尊厳死を希望することについて医者に説明。病院で最初は治療のために輸血をしたのだが、やはり症状は良くならず、今度は人工透析をするしかないということになり、人工透析をするためには必要だということで、腕に器具を入れるステント手術をすることになる。結局本人の症状がすぐれず、ステントを使えないまま首からの管で人工透析を2度ほどやった後に病状が一変し、意識不明となり、その後すぐに父は息を引き取ることになる。人工透析も結局延命治療の一つである。人工透析及びそのためにやったステント手術が父の体力を奪い、それが死につながったのではないか、だったら、ステント手術も人工透析もしないで静かに楽に死なせてあげたほうが良かったのではないかとも思うのだが、素人の私があの状況で医者に治療について口出しするのは難しく、意識を失ってしまった父に「疲れたよね、もういいよね」と声をかけるのが精一杯であった。
協会に入っている司法書士さんからも聞かれたのだが、尊厳死協会のカードを見せたら水戸黄門の御門のように、みんなが「はい、わかりました、尊厳死したいんですね」と納得してくれるものではない。一つ一つの治療方法が延命なのか治療なのかを判断し、延命なら異議を唱え、自分が喋れなくなった時には、その意思を代弁してくれる人が誰か必要である。父の意思は私が代弁したからいいのだが、私(尊厳死協会にその後私も入会した)は自分の意思を誰かに伝えて実現させねばならない。連れ合いも子供もいない身の上でその重すぎる役割を誰に託したらいいのか判断がつかなくて困っている。
父は「延命治療拒否、通夜・葬式不要、千葉大学に検体」という文言を書いたカードを持ち歩いていたので、父に直接聞くまでもなく、病院で息を引き取った後は(事前に電話連絡しておいたが)運搬会社に連絡し、その会社が父の遺体を千葉大学に運んでくれた。私の横で父の遺体を見送ってくれたお医者さんは、「これで終わりですか?随分さっぱりしてますね」と私と見ておっしゃったのだが、遺体を見て号泣しても何にもならず、というか、検体することになると、お葬式の業者さんが代わりに死亡届の手続きや催事をやってくれるのと違い、その後の手続きは全部自分でやらねばならないので、感傷に浸っている暇などなかったというのが正直なところ。日曜日の夜12時近くに「もうすぐ亡くなりそうです」と病院から電話がかかってきたので、「今からそちらの病院まで行く手段がないので、朝まで待ってください」と死亡の日時を早朝私が病院に行くまで延ばしてもらい、その死亡診断書を持ってそのまま船橋市役所に直行。死亡届、住民票他、できる手続きをそこでやってもらって、それが本籍がある世田谷区に転送されて、除籍簿ができたら、それを取り寄せて相続の手続き開始。
検体に出した遺体は、2,3年後に実験が終わると遺体を焼いて骨で戻してくれるらしいので、それを別の専門の業者さんに砕骨してもらって、母と同様に市原の緑ヶ丘霊園で散骨=樹木葬をしてもらう予定。普通に通夜・葬式・墓地に納骨の方が流れに乗ればいいだけなので手続き的には簡単ではあるけれど、遺言みたいなものなので、それを忠実に守ってやっている。これから問題になるのは、二人とも入っていない石橋家の墓がまだ富士霊園というところにあり、私が死んだら石橋家は誰もいなくなるので、その墓終いを自分が生きているうちにやっておかねばならないことである。人は一人で死ぬんだけど、生前にやれることは全部やったとしても、死んだ後の処理には自分以外の誰かの手を借りないと何もことが運ばない。私もそうだが、独り者は自分の死後を誰かに委ねないといけないので、その誰かのための報酬の払い方やそのために何をしなくちゃいけないかを、例えば、エンディングノートに書いておく必要があると思う。
父は、満鉄に勤める祖父のもと、中国の旅順で生まれ、終戦後に身一つで日本に引き上げて九州の叔父の家に身を寄せて伝習館高校を卒業し一旦は就職したものの、どうしても大学に行きたくて一人で上京して中央大学に入学(学費が早稲田より安かったらしい)して、一時は栄養失調になったこともあるような苦労を経験した人。母が他界した後は、自由に生きて欲しかったんだけど「生きていく目標がなくて困っている」と言っていたので、一人になってからの人生は本当に余生だったのかもしれない。二人が生きていた時はよく喧嘩していて私が仲裁に入ることもしばしばあったが、彼らの本当の仲は私にはよくわからない。
また、母は2021年、父が具合が悪くなったのが2023年の春からだったので、二人ともコロナ禍で同窓会や友人と会う機会ないまま他界してしまい、そのことが気の毒であった。パンデミックが起きるなんて誰にも予想しえないんだけど、だからこそ、会いたい人には後悔しないように無理しても会える時に会っておいたほうがいいよね、と従姉妹とも話をしていた。人の寿命なんてわからないので、後悔しないような日々を過ごさねば、と改めて思う。